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【画像あり】ヒモからラテアート世界一へ 澤田洋史ってなに者?

こんにちは!Yukaです。

ヒモからラテアート世界一へ 澤田洋史ってなに者?

ラテアートを極めるために当時務めていたディーン&デルーカを退職。

当時OLとして働いていた奥さまのヒモになり、ラテアートを学ぶ。

その後、ラテアートの世界大会で史上最高得点を獲得し、アジア人初の優勝を飾ることになる。

澤田洋史(さわだ・ひろし)さんとは一体どんな人物なのか、調べてみました。

【基本情報】

1969年大阪生まれ(52歳)2021年現在

近畿大学卒業後、インターナショナル→雪印乳業→ディーン&デルーカジャパン勤務

2008年フリーポア・ラテアート・ワールドチャンピョンシップで世界王者になる。

アメリカと日本に自身のコーヒーショップ「STREAMER COFFEE COMPANY」をオープン。

現在はコーヒーショップの経営のほか、書籍の出版、プロデュース業など幅広く活躍している。

ラテアートとの出会い

32才の時、英語とビジネスを勉強する目的で単身アメリカに渡る。

イチローがシアトル・マリナーズに移籍したことから、シアトルに好感を抱いたのが留学のきっかけになった。

スタバなどのことをシアトル系コーヒーと呼んだりするが、シアトルはコーヒーが有名で初めのころは澤田さんもスタバに通っていたそう。

ある日、澤田さんは個人経営のお店に出会う。

それが、後に世界一のラテアートを作り出す澤田洋史さんと、ラテアートの出会いになった。

「Tシャツにタトゥー全開で、鼻ピアスみたいな人がコーヒーをつくっていたんですよ。当時、日本でバリスタというとグリーンのエプロンを着けているか、黒のベストを着てイタリアンバールで働いているバリスタしか知らなかったんで、『こんなんでコーヒーつくれんのかな』と思いました」

引用元:Newspicks

「でも、そんな外見とはギャップのある繊細な動きで、テイクアウト用のペーパーカップに注ぐだけでラテアートをサッと描いてくれて。それがまたいままで飲んだことがないぐらいすっごくおいしいカフェラテで、感激しちゃって」

引用元:Newspicks

その日からカフェ・ラドロというそのお店に毎日通うようになったそうです。

個人経営のカフェに毎日通ううちに、店のバリスタや、マネジャーと仲良くなったのだそう。そして、彼らに気になっていたことを訪ねた。

「なんで、ミルクを注ぐだけでアートを描けるの? どうやっているの?」

引用元:Newspicks

その日から澤田さんのインターンが始まり、ラテアートを教えてもらうようになったそうです。

すごい行動力+好奇心の塊ですよね。

ディーン&デルーカジャパン最初の社員になる

1年の留学後、友人のツテで日本に上陸したばかりのアメリカ初の食のセレクトショップ、ディーン&デルーカジャパンの最初の社員になった。

幅広い仕事を任されるようになったが、アメリカ出張中に見たフリーポア・ラテアートチャンピョンシップからこんなことを思ったのだそう。

『あれ、俺の方がうまいやん?』 笑

帰国後もラテアートの練習を続けていた澤田さんは、2005年にディーン&デルーカで働きながらラテアートの世界大会に出場する。

会社を辞めて奥さんのヒモになる

しかし、結果は散々なものだった。 「そのときの出場者が20人で、『20分の1で世界チャンピオンになれんの?』みたいな感覚で行ったんですけど、甘く見ていました。コーヒー豆、エスプレッソマシン、牛乳、すべて普段使ったことがないもので勝手が違うし、場の雰囲気にのまれるんですよ」「観客がいるし、テレビ局のカメラもぐわーっと近づいてくるから、実力の20パーセントぐらいしか出せなかった。『俺のほうがうまいやん?』っていうのは全然違って、ズタズタでしたね」

引用元:Newspicks

翌年、『コーヒーに集中したい』とディーン&デルーカを退職。 日本とアメリカを行ったり来たりしながら、小さな大会に出場していたそう。 かなりの行動派ですね。 その時はすでに既婚者であったため事実上のヒモだったというのだからすごい。 何がすごいって、奥さんの寛容さがすごい。 「結婚していたんですけど、奥さんは普通にOLとして働いていたので、当時の自分を平たくいうとヒモかな(笑)。僕が大会に行くたびに、奥さんは『どうだった?』って聞くじゃないですか」 「大会に出ると海外のバリスタと情報交換できるし、テクニックも見られるから、帰るたびに『勉強になったわー』といっていたんですよ。それを何回か繰り返していたら、奥さんに『何回勉強すんの?』といわれた記憶がありますね」

引用元:Newspicks

ヒモからの脱出、世界大会優勝へ

父親の死後、さらに練習を重ねテクニック、メンタルと死角がない状態になるまで圧倒的な練習量を積んだ。

100人が参加していた世界大会で、見事にアジア人初、そして史上最高得点で優勝を飾る。

さらに澤田さんは賞金の5000ドルをその場で「貧しいコーヒーの生産国に寄付する」と宣言。

澤田洋史の名前が世界に知れ渡ることになった。

ここまで書いて思うのが、なんてかっこいい男なんだろうということ。

好奇心旺盛な性格もそうだが、失敗しても諦めないこと。

何度でもトライするチャレンジ精神。

『ニューズウィーク』誌の「世界の頂点を極めた日本人」に選出されるのも当然のなのだろう。

そして、彼の最大のラッキーは寛容な奥さまと出会えたことだと思う。

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